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【毒親育ちのエッセイ】#1 私がアダルトチルドレンだと気づいた時

テトロドかあさん タイトル画像

【私が感じていた生きづらさ】

は現在35歳。

女性の平均寿命は今や87歳だから、まだまだ半分にも満たないというところですが、この歳になってやっと自分という乗り物を乗りこなすことができるようになってきた気がします。

主観的にとらえていた世界を、一歩下がって俯瞰的に見られるようになってきたのも30歳を越えた辺りからでした。

自分自身の世界における位置付けとか、自分のあり方について客観的に考えられるようになってきたのも最近のことです。

そうして考えてみた時、ふと感じたことがありました。


「どうして世界はこんなに生きづらいの?」


ということ。

たとえば、職場ではちょっとした人間関係のストレスに耐えることができない。

友達関係では、どのくらい近づいていいのかがわからない。

音楽活動では、他人の評価が気になって自分のパフォーマンスに集中できない。


細かいものをあげればキリがないのでやめておくけど、私には日々のそうした小さなことが積み重なって、大きな障壁になっていました。

何をやっても、心のどこかで「うまくいくわけない」とブレーキをかけ、私の人生はこんなもんなんだろうと自分を諦めていました。

結婚してからはありがたく頻度は減りましたが

「死にたい」

って考えることはあるし、自分が何のために生きているのか時々わからなくなって、むなしい気持ちを感じることもあります。


そんな時、ネットを検索していて出会った単語があります。

それが「アダルトチルドレン」というものです。


【アダルトチルドレンとは】

アダルトチルドレンとは、

機能不全家族で育ち、生きづらさを抱えた人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

のことを表す言葉です。

また、機能不全家族とは、

家庭内に対立や不法行為、身体的虐待、性的虐待、心理的虐待、ネグレクト等が恒常的に存在する家庭を指す。機能不全家庭とも称され、その状態を家庭崩壊、もしくは家族崩壊と言われている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

を指します。



と言っても、私はいわゆる「虐待」というものを受けたという認識はないし、愛情のある・・・むしろ愛情の多すぎる家庭で育ってきたと思っていました。

でも、同時に息苦しさをも感じてきたということを、その言葉を見た時に初めて意識できたと思います。


そして、自分がアダルトチルドレンだという認識を決定的にしたのは「毒親」という言葉でした。

毒親とは、

毒になる親の略で、毒と比喩されるような悪影響を子供に及ぼす親、子どもが厄介と感じるような親を指す俗的概念である。1989年にスーザン・フォワードが作った言葉である。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

のことを言います。



「毒」という表現は、インパクトがありなかなか受け入れられない人もいると思いますが、長年、母からの干渉に悩んできた私にとっては、とてもしっくりくる言葉でした。

私がこれまで感じてきた生きづらさの原因は、母だったのかもしれない。

なんとなく納得する自分がいました。

さらにネットを検索すれば、親とどう付き合えばいいか悩んでいる人の声や、解決するために絶縁を選んだ人の話などがたくさん見つかりました。

同じように悩んでいる人が世界にはたくさんいるんだということを知り、少しだけ救われたような気持ちになりました。



それでも、自分がそのような家庭で育ち、生きづらさを抱えた「アダルトチルドレン」であるとハッキリと認めることはなかなか難しい。

それは、自分の親が毒であるということを認めることでもあるし、そう考えること自体に罪悪感を感じてしまうのです。

「親を悪く思うことは親不孝である」と思っていたし、それが常識だと思っていました。



だから、私はそのページをそっと閉じて、そういう風に考える自分をあきらめ、心の奥に閉じ込めたのです。


【自分の人生を生きたい】

たちは、生まれた時からその家庭内で育ちます。

物心ついて外の世界に出るまでは、家庭が世界の全てであり、親がその世界をおさめる規範の全てです。

だけど、親自身が子供を育てるに十分なもの、たとえば知識や、優しい心、強さなんかを持ち合わせておらず、また、それらを得ようと思う気持ちを親になってからも持たない場合、規範はかたより、家庭はいびつな形になるでしょう。

俯瞰で見ればいびつでも、中にいる私たちにはそれはわからないことです。

子供であればなおさら。

だから、家庭内で「当たり前」に行われていたこと、自分が普通だと思っていたことは実は世間では異常なことなのかもしれません。


そうでなくても、時代が変わってるのに変わろうとしない固定概念や、目に見えない同調圧力が、あたかも「当たり前」の顔をして世界にはびこっています。



私たちが自分で考え行動していると思っていても、それは本当は自分の考えや行動ではないかもしれません。

自分の心にある「当たり前」が知らないうちに自分の思考を制限し、行動させていることが、「生きづらさ」の原因であることも考えられます。


私は、その後、あることをきっかけに親と絶縁することにしました。

そして強く願ったことがあります。

「自分の人生を生きたい」

ということ。

そのために、自分の中に「当たり前」としてあった思考を打ちこわし、本当の自分の考え方を手に入れたいと思いました。

それを実現するために私はこの文章を書いています。

 

実は、この「テトロドかあさん」は何度も書き直しているのですが、そのたびに本当の自分に近づいているような気がしています。

これが完成する時、私が本当の自分に出会えること、そしてこのブログをみつけてくださった方の勇気となること、それがまわりまわって、心豊かな社会の実現に繋がることを願っています。