【「毒親」という言葉のとらえ方】
最近でこそよく目にするようになった「毒親」という言葉は、医療機関コンサルタント・セラピストのスーザン・フォワードというアメリカ人によって1989年に作られた言葉です。
その言葉が初めて使われたのが、彼女の著書「毒になる親 一生苦しむ子供」です。
日本では、この本が出版されてから10年も後の1999年に翻訳されました。
ウィキペディアによると、日本国内で虐待が実質的に社会問題となったのは2000年前後ということなので、「虐待」という考え方が社会に定着したのはつい最近のことなんですね。
その理由として、もともと家父長制や、母性愛神話などの考え方が根強い日本では、「虐待」や「毒親」という概念は受け入れられにくかったのではないかと思います。
家庭という閉鎖的な空間のことを表に出すこと自体が、非常識であるという認識も少なからずあったと思います。
今では、悩みを抱える人がSNSなどを通じて思いを打ち明けることがやっとできるようになり、ニュースでも時々記事を目にするようになりましたが、依然としてモヤモヤを抱えて生きる人が多いのは、上のような固定概念の強さを物語っているのだと思います。
私自身も、そのモヤモヤを抱えてきて、やっとその正体にたどり着いた1人です。
さて、この「毒親」という表現ですが、原文では「toxic」という単語が使われています。
毒、と聞くと「poison」を思い浮かべる人が多いと思います。
「poison」は「(それ自身が)有毒な」という意味ですが、「toxic」という単語は「毒性のある」という意味になります。
日本語ではいまいちニュアンスが伝わりにくいのですが、「TOXIC PARENTS」というタイトルに込められた思いを読み解くと、「親自身が毒である」ということではなくて、「毒性のある親」ということになります。
一生懸命に子育てをしてきたと自負する親は、自分が「毒親」だと言われたらかなりショックを受けると思うし、絶対に受け入れないと思います。
それは「毒親」という単語が「親自身が毒である」と誤解を与えやすいからです。
一方、それは子供の側でも、誤解が生じる場合があります。
親自体を毒とすることで、「親の全てが悪い」と思い込んでしまい、シャットアウトしてしまうのです。
そうなると、一時的に自分の人生から親を追い出すことはできても、いつまでたっても罪悪感や憎悪は残ってしまうと思います。
そうではなくて、親の存在は認めながらも「毒性がある」という親の性質の部分を正しく理解し、冷静に自分の感情をコントロールできるようになることが、この本を読み進める上で一番大切なことだと思います。
【私がこの本を読んで感じたこと】
私自身は、この本を読んでかなり考え方が変わりました。
それまではいろんなブログを読んで、なんとか「毒親」への対処方法を知った気になっていたんです。
この本にはそれらのうちいくつかに書いてあった「毒親との接し方」や「毒親への対処方法」などといった対症療法はのっていません。
しかし、この本をきちんと理解すれば、それらの対症療法が何の意味もないことがわかると思います。
「自分の親が毒親だった」と認識する時、まず一番に願うことは、親が問題を理解してくれ、必要なら自分に謝り、以後はお互い打ち解けて良好な親子関係になることだと思います。
でも、実際にはよっぽどの親でない限り、自分の非を認めず、場合によっては「お前が悪い」と責め立てるのが普通だと思います。
なぜなら、親自身には子供に害を与えていたという自覚は一切ありませんし、むしろ「いつも子供のためを思ってやってきた」とすら思っているだろうからです。
だから、この本を読んで「良好な親子関係を築く」ということが幻想だったと思い知らされました。
それよりも重要なことは、自分の罪悪感や自己否定の本質を知った上で、自分の感情や行動を自分で選択しコントロールすること。
それが自分の人生を自分で生きるということなのだと、理解することができました。
そのように自分を変えることに焦点がしぼられているので、人によってはこの本の通りに「対決」すればバッサリと親を切り捨てるような感覚に思うかもしれません。
「対決」と言うとまるで生きるか死ぬかの「決闘」のように感じてしまいますし。
「ちょっと話があるんだけど」という切り口ならできそうな気もしますが。
この本に書いてある「対決」とは、親への無意識の「恐れ」を乗り越え、自分の本当の気持ちを伝える勇気を持つための行動を起こすことだと私は解釈しています。
親がどんな反応をしても冷静に対処し、ヒートアップしそうであれば「また改めて冷静に話そう」と距離を置く。
そうやって「自分の感情と行動をコントロールできた」と感じることで自信を取り戻すという一連の作業に「対決」という名前がついているだけです。
そう考えると、ハードルは少し下がりますが、たとえ「対決」が相手を打ちのめすことではないとしても、現実には親は打ちのめされることになると思いますし、その後の関係が悪化する可能性は十分に考えられます。
私自身、今は親と絶縁状態にありますが、「対決」するかと言われると「そこまでは考えていない」というのが正直なところです。
親自身も完璧な人間ではないとわかっているし、確かに私の生きづらさの原因は作ったとは思うけど、同じほどの愛情も受け取ったとも思っているからです。
また、私が今後親に望むことは特に何もありませんし、私の気持ちを伝えたら親は狼狽し、場合によっては親自身が自分の人生を責め、後悔を抱えたまま生きていくことになるだろうということは目に見えています。
怒りもあるけど、感謝もある。
だから「対決」はできないし、すべきでないと思うのです。
それを自分の弱さゆえに「できない」のではなく、「優しさ」ゆえにしないのだと言えるのであれば、必ずしも「対決」は必要ではないと考えています。
【対決の代わりにブログやSNSを利用する】
だからと言って、一度認識した親に対する恐れや罪悪感、怒りをそのままにしておくべきではありません。
この本の中にも、
もしこの方法を取らなければ、残る道はその恐れとともに残りの人生を生き続けることしかならない。
引用:毒になる親 一生苦しむ子供
とあります。
そもそも、そんな人生に嫌気がさしたからこの本を手に取ったわけなので。
そこで、私は「対決」の代わりにSNSやブログを通して、自分の思いをつづってみることをおすすめしたいと思います。
そして、書き終えたら、一度音読することも必ずしてください。
というのも、私自身がこの「テトロドかあさん」を何度も書き直しているうちに、心が徐々に軽くなることを感じてきたからです。
また、私は書き終えた文章を校閲する意味で、音読することにしているのですが、そのことが偶然にも感情を吐き出す作業になっていると気づきました。
この本にある「親の墓の前で手紙を読み上げる」ことと同じような効果があるのではないかと思っています。
私のブログは親も知っているので、見ようと思えば見られる状態です。
でも、隠すつもりはありませんし、もし親が読むことがあればそれが「対決」ということになるでしょう。
ずるいやり方かもしれませんが、それは私の「優しさ」だし、よりよく生きるための大人のやり方だと思っています。
そのように、誰かの目に触れているという認識には親も見る可能性があるということが含まれるので、ネットで自分の気持ちを発信することは、「対決」まではいかなくても心の解放にはある程度の効果があるのではないかと考えます。
私自身は、ブログを公開すればSNSでも拡散していますし、それによって
「自分も同じような境遇だった」
「つらい思いをしてきたんだね」
というようなコメントをもらい、励まされることもありました。
逆に批判的なコメントはもらったことがありませんし、もしあったとしてもそのような人は、自分の概念を押し付けてきた親と同じ姿に映るだろうし、今後関わる必要がない人だとわかるだけです。
ネット上に自分の気持ちを吐き出すことには、見知らぬ人から攻撃を受けるリスクもありますが、無関心で通り過ぎていくのがほとんどです。
わざわざ攻撃されるのは、それだけアクセス数があるということですし、うらやましいなと思います。汗
それに抵抗があるなら、鍵アカウントや非公開などの機能があるものを利用するのがいいでしょう。
それが無理なら、自分だけのノートを作って思いの丈をつづってみるだけでも違うと思います。
とにもかくにも、「対決」ができないのであれば、自分の内に蓄積している感情を外に吐き出すことはしたほうがいいと思います。
【変わりたい自分に気づけたことがスタート地点】
ネットで検索すればすぐに答えがわかる時代ですが、長年かけて蓄積してきた心の問題はこの本を読んだからと言ってすぐに解決できるようなものではありません。
ですが、「変わりたい」「変えたい」と思ってこの本を手に取った、そのこと自体が自分の本当の気持ちに気づいてあげられた、ということだし、その時点で少しずつ人は変わっていけるのだと思います。
私自身もまだ変革の最中ですが、自分の感情をコントロールできたと感じた時、初めて私は自分の人生を生きているという実感を得ました。
これが、普通の感覚なのかと思うと、これを知って生きている人はどんなに人生イージーモードなんだと思ったほどです。
でも、回り道した分、私には同じ悩みを持つ人の心の痛みを理解できるし、社会の抱える問題にも気づくことができました。
だからこれからは、それを自分の強みとして生きていきたいし、自分の経験を社会に活かしていきたい。
その気持ちを糧に「テトロドかあさん」を書き上げたいなと思っています。