【私が受けていたのは教育虐待】
これまでのふり返りをするまでもなく、私には子供時代の勉強がものすごくつらいものでした。
それでも、「それは親が私のためにしたことで、感謝しなくちゃいけないことなんだ」と思っていたし、実際に母にも「そのおかげで大学に行けたんでしょ」と言われると、何も言えなくて、心がモヤモヤすることにさえ罪悪感を覚えました。
でも、こうして「毒親問題」についていろいろ検索しているうちに、出会った記事を読んで、少しだけ救われたような気持ちになりました。
それが、東京新聞が運営する「東京すくすく」というサイトの記事でした。(下のリンクからご覧いただけます。)
参照:教育虐待につながる”3つの言葉”使っていませんか 強まる中学受験の重圧 親が子どもを追いつめる
この記事で使われている「教育虐待」という言葉を見た時、正直ほっとした自分がいたのです。
私が感じてきた心苦しさは、やっぱり「虐待」のせいだったんだ、と。
この記事では教育虐待をする親の常套句となっている下の3つの言葉を紹介しているのですが、
「あなたのため」
「いい教育を受けさせたい」
「選択肢を増やしてあげたい」
これは母がたびたび口にしていた言葉そのもので、まるで母のことを書かれているようでびっくりしました。
そして、こういう記事があるということは、同じように苦しい思いをしてきた人がたくさんいるんだということを感じました。
【「ルポ 教育虐待 毒親と追いつめられる子どもたち」を読んで】
そこで、上の記事で紹介されていた本を買ってみることにしました。
おおたとしまさ著「ルポ 教育虐待 毒親と追いつめられる子どもたち」です。
この本には、教育虐待を受けてきた人の事例だけでなく、親が教育虐待をするにいたった社会的背景などにも触れられており、それが個人だけの問題でなく、社会全体の問題であるということを感じさせられました。
学歴は社会階層を行き来するための通行手形になった
引用:ルポ 教育虐待 毒親と追いつめられる子どもたち
とあるように、特に私の親世代(昭和10〜30年代くらいかな)の人たちが教育虐待に傾倒していくのはすごく納得できました。
また、親自身が機能不全家族で育ち、精神的に問題を抱えている場合は、特にエスカレートしやすい、ということにも言及してありました。
それを読んで、親にとって子どもに行き過ぎた教育をすることは、「宗教にどハマりしてしまってる感覚」に近いのかな、と私は思いました。
「こうすれば救われる」みたいな感覚なのかな、と。
また、この本には、「Z会進学教室」の教育長を務める長野正毅さんという方の著書にも触れられており、塾講師としてたくさんの子どもと保護者を見てきた経験から語られる、教育のあるべき姿が記されています。
私の母は、塾を経営していると以前にも書きましたが、同じ塾講師として違う部分は、子供自身と人間的に向き合った教育をしていたかどうか、ということ。
「教育業界に身を置いたから、自分は父を反面教師にすることができた」という記述がありますが、私の母の場合は、そのことでかえって教育虐待という宗教に傾倒していったような気がします。
【母の教育を感謝する必要はないと気づいた】
私の母の経営していた塾というのは、公文教室のことです。
公文には、赤ちゃんからできる教材があり、子どもの実力次第で年齢に関わらず上の教材に進んでいけるというのが最大の特徴です。
私自身、「◯才で課程を修了した子がいる」というような話をたびたび母から聞かされ、そのたびに
「あんたも頑張りなさい」
とせっつかれました。
公文の「さらに上を目指せる」という性質が、母の教育虐待に拍車をかけていました。
1つできたからといって褒められることもなく、
「じゃあ次はこれね」
という感じでさらに上のことを要求される。
それの繰り返しで、私にとって公文は無間地獄のようでした。
母は、私が勉強が苦痛であるという気持ちにも、私が勉強が楽しいと思うタイプの子供じゃないということにも、目を向けようとせず、ひたすら勉強をさせていい成績を取らせることに意義があると思っていたと思います。
その要因として、私の将来を案じる親心だけではなく、公文の先生である自分のメンツを守ること、また、成績優秀の子供を持つことで自分の承認欲求を満たすことが含まれていたと考えます。
プライドが高く、世間体を重んじ、自分が一番正しいと思っている母。
教育に関しては、親心よりも自分の保身の気持ちのほうが強く働いていたのではないかと思います。
そこでもう一度、冒頭にあげた3つの言葉、
「あなたのため」
「いい教育を受けさせたい」
「選択肢を増やしてあげたい」
を私なりに検証してみると
「あなたのため」もあるけど、半分は自分のため
「いい教育を受けさせたい」というのは、自分にとって都合のいい教育、もしくは世間体のいい教育
「選択肢を増やしてあげたい」と言っても、自分の気にいる選択肢しか見せない・選ばせようとしない
という感じだったのかなと思います。
母にとって勉強の主体は私ではなく母自身だったということです。
そこまで考えると、自分が今までされてきた息の詰まるような教育は、実は正しいものではなかったんだと思いました。
だから、無理に感謝する必要はないってこと。
それだけでも自分の心苦しさが少し楽になるような気がするのです。
【正解は心が持っている】
この本に書いてありますが、子育てに正解はありませんし、私自身も人生に正解はないと思っています。
でも、これから子供の教育を考える人にあえて言うとすれば、正解は心が持っているから心の声に耳をすませてほしいということです。
それも、子供に問いかければいいということではなく、まずは親自身が自分の心の声を聞くことから始めることが大切だと思います。
ただ、心の声を聞くことはすごく難しい。
私自身もこのブログを書きながら、思っていることを正しく言語化することは本当に難しいことだなと思っています。
でも、丁寧に考えて、何度も推敲することで、ちょっとずつ形にできることがわかってきました。
そんな時間を、少しでもいいから持ってほしいのです。
「自分が子供に勉強させたいのはなぜか」
「子供にその学校を推す理由は何か」
親自身がそのことを突きつめて考える時、その答えが誰のためのものなのかに気がつくと思います。
その時初めて、「子供の声を聞かなきゃ」って思えると思うんです。
子供だからわからない、なんてことはありません。
ただ言語化するのが難しいだけで、心はちゃんと喜んだり傷ついたりしています。
その証拠に、小さい時のモヤモヤを抱えたまま大人になった私がいるので。
ちゃんと、わかっています。
そのことも知っておいてほしいです。
自分の心の声を聞くことが難しいとわかっていたら、子どもの心の声を聞くことにはもっとゆっくり時間をかけないといけないことがわかるでしょう。
子供と向き合うってことはそういうことなんだと思います。
私は全然、向き合ってもらえなかったな。
でも、私の心苦しかった子供時代の経験が誰かの役に立つなら、自分の人生にも少しだけ意味があったのかなと思えます。
私自身も、そうやって自分の歩んできた人生を「正解」にしていかなければいけないですね。