【母からの電話にふり回された過去】
私が実家を出てから母はたびたび私に電話をかけてきたのだけど、私は母からの電話に少なからずストレスを感じてきました。
「いつも会えるわけじゃないんだから電話くらいいいじゃない」
と、何も知らない人は言うと思いますが・・・
話をしていて楽しい相手なら私だって文句は言いません。
でも、母からの電話は私が見ていない朝ドラの感想と、誰かに対する愚痴がほとんどで、共感できない話ばかり。
一方で私の話をしようとしてもすぐに自分の話にすり替えて、まるでこっちの話には興味がないみたい。
何か下手なことを言えばなじられるし、もうだいぶ昔から私は母と普通の親子としての会話は無理だとわかっているのに、どこかで期待もしちゃってて、つい地雷を踏んだり墓穴を掘ったりしてしまう。
だから・・・ホリエモン氏じゃないけど、母と電話で話をすることは自分にとって何の生産性もなく、時間のムダでしかないんですよね。。
それでも電話が鳴れば電話に出てしまう、言ってみれば「パブロフの犬」状態でした。
電話に出ればそれなりに真剣に話を聞いて、少しでも母のためになればと思っているのに、母のほうは塾の生徒を待つひまつぶしに電話をしてきていたということがよくあり、
「あ、生徒来たから切るわ。」
とプツリ。
一生懸命話を聞いてすごく損した気分になることも何度もありました。
愚痴を聞くだけ聞いた電話の後にはすごく疲れてる自分がいて、電話が鳴る前にしようと思っていたことが手につかなくなることもしばしば。
そうなるのをわかっているのに、どうして電話がかかってくると出なきゃいけないと思ってしまうんだろう。
出たくなければ出なくていいのに。
そうやって自分の意志と違う行動をとってしまうことが、毒親の呪いなんだろうけど、それは自分で改善していかなくちゃどうしようもないこと。
それに自分で気づけるまでに、ずいぶんと時間がかかってしまいました。
【愚痴っぽいのは他者に依存しているから】
ネットで「毒親 愚痴 電話」というキーワードで検索すると、なんと多くの記事が出てくることか。
たくさんの人が、私と同じように親からの愚痴電話に付き合わされて困っているんだなぁと思いました。
同時に、最初は母のことだと思っていたのに、読み進めていくと自分にもあてはまることがたくさんあることに気づきました。
「間違っているのは相手で、自分は正しいと言ってほしい」
「慰めてほしい」
そもそも愚痴っぽい人というのは、相手の意見とかは求めていなくて、自分の正当性を誰かに認めてもらうことで心の不安から解消されたい、つまり、自分の心のあり様を他人に依存している状態だということです。
確かに私自身にもそういうところがある。
母からの愚痴を聞いてあげることで「自分は必要とされている」と感じたいという、私自身も母に依存している状態であるということにも、それらの記事を読む中で気づきました。
母も私も、お互いに依存しあう「共依存」の関係だったんですね。
だから、私が絶縁したことで、はからずもその関係性を壊すことができたっていうことはよかったんだと後から思いました。
そして、もう母を必要としなくてもいいように、自分の精神を鍛えないといけない、とも思いました。
思い返せば、今まで母の顔色ばかりうかがっていたのは、母に嫌われたくないのと同時に自分の決断に自信が持てなかったからです。
一応母におうかがいを立てておけば失敗した時には母に責任転嫁できる、と無意識にも思っていたと思います。
母がよく自分の不幸をばあちゃんや父さんや親戚のせいにしているのは、そういうことなんだな、と納得。
私自身は、幼少時代からの教育によってしんどい思いをしてきたのは確かで、そのために生きづらさを感じてきたのも本当のことだけど、だからと言って一生「母のせいだ」と文句を言いながら生きていくのは、賢明ではないと思っています。
それに気づいた時から、もう自分の人生は始まっているのだと。
それでも言い続けるのが愚痴なんだと思います。
私は、母とは違う。
絶対に自分から逃げない。
だから、自分のことは自分で考える。
それが自立ってことなんですよね。
【自分の意思表示をすることが自分の人生を生きることに繋がる】
今でこそ、ブログでここまで感情をさらけ出すことができていますが、以前はそんなこともできませんでした。
独自ドメインで、自分でレンタルサーバー代を支払って、自分が運営しているブログなのに、です。
罪悪感や、自己嫌悪感にさいなまれ、見えない誰かに遠慮し続け、知らず知らずに自分をおさえこもうとしていたのです。
冒頭に
「電話くらいいいじゃない」
と言う人もいるだろうことを書きましたが、電話くらい小さなことでもきちんと自分の意思を貫くべきなんだと今は思います。
逆に、電話に出ないという選択をすることでさえ躊躇してしまうなら、もっと大きな選択だったらなおさら自分で選ぶことは困難になります。
結果的に、人生の選択全てにおいて自分ではない誰かに気をつかってしまい、一生誰かに自分の人生を支配され続ける人生を歩むことになるでしょう。
私は、ずっとそうやって自分の人生を人任せにしてきてしまったから・・・
だから、もし同じように悩んでいる人がいたら、自分がイヤだと思うことは「イヤだ」と意思表示をする練習をしてほしいのです。
親からの電話に出たくないなら出ない、という選択をする。
一見、逃げのようにも感じるけど、「選択する」という行動を起こしているんだと意識すると意味合いは違ってきます。
それによって親が悲しんだり、怒ったりしても、親が自分で自分の感情をコントロールするべきであって、こちらがどうこうすべき問題ではないのです。
こちらが親に気をつかったりするから、親が自分の感情のコントロールをするのにこちらに依存するようになるのです。
母が感情を私にぶつけてくるのも、ある意味では幼少時代から私がそれを受け入れてきた(反抗しなかった・制圧されてきた)ことで母を甘やかしてしまった、ということなんだと思います。
そして、これは親との関係だけではないと私は考えます。
友人関係や職場の人間関係でも、他人の顔色をうかがうことがくせになっている人のそばには、その人を利用して自分の感情をコントロールしようとする人間が寄ってくるのではないかと。
私自身、別々の職場でイジメにあったことが2回もあるし、きっとどこかで相手に「こいつなら感情をぶつけてもええんやな」という雰囲気を出してしまっていたんだと思います。
そして、そのきっかけが、小さな選択をあいまいにしてしまったということなんじゃないかと思うのです。
小さい選択でさえ意思表示ができない人とわかれば、そこにつけ込んでくる人がいたっておかしくありません。
無意識にも、自分が周りの人間をそのようなパワーバランスに誘導してしまっているのです。
逆に、小さなことでも自分の意思表示ができた経験が積み重なると、自己肯定感は高まっていくと思うし、結果的に自分を大切にすることに繋がるんだと思います。
私自身は、親との「絶縁」というかなり極端な意思表示になってしまいましたが、それができてからは日常生活でも自分の意思表示をすることが難しくなくなったように思いますし、以前のように生きづらさを感じることは少なくなりました。
やっと自分の人生が自分のものになったという感覚です。
上の経験からも、小さい選択から自分の幸不幸にいたるまで、他人に依存している人は絶対に幸せにはなれないと思いますし、今のままでは母は不幸なまま生涯を終えることになるでしょう。
でも、それは母が自分で気づかないとどうしようもないわけで、母の幸せを願うならば母がそれに気づくまで私はメッセージを発し続けなければいけない、つまり、絶縁を続けなければいけないと思っています。