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【毒親育ちのエッセイ】#23 「対決」の本当の意味とは

テトロドかあさん タイトル画像

【対決は毒親を克服するために必要?】

が「毒親」という考え方を知ったのは、ネットでの検索がきっかけです。

毎度ながらざっくりとふり返っておきます。

私の親は、毒親の中でも「教育虐待」に近い子育てをしてきました。

私は小さい頃から、親の顔色をうかがいながら、必死に報いようと生きてきました。

でも、いざ大人になって社会に出た時、自分の思うように動けない自分がそこにいました。

机にばかり向かっていたから、人と接しても距離感がよくわからない。

だから、自分を犠牲にするような・・・たとえば、自虐に徹したり、気乗りしない誘いをなんとなく受けちゃったり、そういうことばっかりしてたら、いつの間にか自分はどんな人間だったかわからなくなりました。

そのうち、深く関わることもしんどくなって、誰にも心を開かなくなったし、誰のことも信じなくなった。

それなのに他人に嫌われるのはすごく怖くて、自分の気持ちをどんどん奥のほうへ追いやって他人を優先してしまう。

どうして自分はどこに行ってもなじめないんだろう。

こんなに一生懸命やってるのに、どうして誰も私を理解してくれないんだろう。

本当の私は一体どこに。

生きづらい。

死にたい。

その「死にたい」をなんとか解決したいと思ってネット検索をする。

「自分らしく生きたいのに生きられない」

「自分が何かわからない」

そうやって検索したら、自分と同じように悩んでる人や、それに対する解決策がたくさんヒットしました。

今ふり返ると、「死にたい」って思う時の心境は「(そんな人生)生きたくない」で、本当はちゃんと生きたいって思ってるんですよね。

そこで初めて、自分をコントロールしてきた「毒親」という概念を知りました。

そして、アメリカのセラピスト、スーザン・フォワードの著書『毒になる親』に出会う。

『毒になる親』を読むまでは、「なんとなくそうかも」と漠然に思っていたのが、本を読んだら「やっぱり自分の親は毒親だ」と確信に変わりました。

そして、毒親を克服するためのプロセスとして、親と正面から向き合い「対決」することが、傷ついた自尊心を救出するための効果的な方法である、というようなことが書いてありました。

じゃあ、親と「対決」すれば、私は私の人生を生きられるんだ・・・!

そう思った私は、来たるべき「対決」に向け、メンタルトレーニングや毒親に関する知識を身につけるべくいろんな読み物に目を通しました。

今から思えば「理論武装」に近かったですけど、その時にいろんな知識を得たおかげで、以前よりかはだいぶ俯瞰で考えられるようになりました。


【私は親と対決しないことにした】

だ、私の場合は、「対決」よりも先に「絶縁」がきてしまったので、自分の気持ちを伝える機会を完全に見失ってしまってました。

ずっとモヤモヤが心に残ってるのでそれにも嫌気がさして、それじゃ克服しようにもできないのか・・・としびれを切らし、夫に相談。

「もうそろそろ大丈夫だと思うんだけど、親に対決の手紙でも書こうか・・・どう思う?」

そう聞くと、夫は

「俺はするべきじゃないと思う」

とキッパリ。

「そもそも、何を書くつもりなんか?」

と聞くので、本にある通り、これまで抑圧を感じながら生きてきたこと、それによって自分は生きづらさを感じてきたことを書こうと思う、と答えました。

「手紙を送っても何も変わらんよ」

「それに、その手紙を送ることは、親を否定することにならないか?」

確かにそうかもしれない。

親は親なりに、たとえ間違ったやり方だったとしても一生懸命してきただろうから。

親にしたら、それにダメ出しをされるようなもので、親の価値観そのものを否定することになる。

そして、そのことは自分がされていやだった「否定されること」を親に仕返すことになる。

それは自分としてはちょっといやだ。

たとえ責めるつもりはなくても、親はきっと責められたような気持ちになる。

「今連絡を絶っていることは、意思表示として十分だと思うよ」

スッキリはしないものの、納得はした。

ただ、私のそうした意思表示がムダだということも、私は知っている。

一度、復縁を試みて電話するようになった時、結局は終始、私をとがめるような話ばかりで、母には何の思慮も与えていなかったから。

正直その時は、

「自分の親なんだから、少しは私の気持ちにも考えをめぐらせてくれるだろう」

そんな淡い期待をしちゃってました。

でも期待は見事に破られ、毒親っぷりをいかんなく発揮してくれた母。

それなのに。

あれから再び絶縁したんだから、今度こそ・・・と、「対決」の手紙に強い期待を寄せてしまっていたのかもしれません。

「そうまでして親との関係を修復したいのは、単に自分が罪悪感から逃れたいからじゃないのか」

夫に言われてハッとしました。

親と不仲であるという不都合な?事実。

私はまた、つまらない世間体のために自分を犠牲にするところでした。

親は何を言っても変わらない。

だから、親が私を理解して心から話ができるようには、絶対にならない。

そんなことわかってるのに、つい自分の都合のいいように考えをめぐらせてしまう。

もしからしたら、そういう受け入れがたい事実を受け入れることが「対決」の本質なのかなと、夫との会話をきっかけに考えるようになりました。

それ以来、親との関係をどうこうすることよりも、自分のメンタルを高めて幸せに生きていくことを目指していくことのほうがよっぽど大切だと思うようになりました。

だから、私は親との対決をしないことにしました。

親のことを、否定も肯定もしない。

そんなスタンスがあってもいいなと、今は思います。

私はすでに連絡を絶ってるので、それができるのかもしれません。

時々、本当の解決は「許すこと」なんて話もありますが、許せるなら悩まないですよね。

「私はこうして許した」みたいな記事も見たけど、「許した」というよりは、「かわいそうだから」とか「最期くらい」みたいな憐れみの感情をこめた「ほどこし」と言ったほうが正しそうだったし。

そもそも、許す前提には親に対する愛が残ってないとできない。

じゃあ、私が親のことを愛しているかと問われたら、正直・・・愛してないかもしれません。

それに、恋愛に理屈が通らないのと同じように、感情も理屈ではどうにもできない。

だから、許すとか許さないとか、自分の知るところではないと思います。

それは潜在意識の話で。

「気づいたら許していたという日が未来に来ればいいな」って、ただそれだけの話で、意識して許そうとするなら、それはきっと少なからず自己犠牲を伴うし、それを自分で了承するということだと思います。

ところで、かの有名なマザー・テレサの言葉に「愛の反対は憎しみではなく無関心だ」というものがあります。

もうすぐ絶縁してから2年になりますが、強い怒りの感情が静まると、ほんとに無関心に近づいているのがわかるんですよ。

というか、意識的に無関心でいるのかもしれません。

また接触して、傷つくのが怖い。

それほどまでに傷ついた、その事実は変えられないし、それにフタをすればまた自分を犠牲にしてしまう。

親に感謝しない自分、

親を許さない自分、

親を毒親と言っちゃう自分、

そのどれも受け入れがたい事実ですが、そのどれも自分なんだから、ちゃんと受け入れてその気持ちを大切にしてあげないと、せっかく絶縁しても心が囚われたままでは意味がない。

だから、今の私の心を解放するためにできる最善のことは「無関心」なんです。

親に対して無関心で薄情な自分っていうのも、なかなか受け入れるにはハードなことですがね・・・。

究極、自分が折れるか、つっぱねて自分らしく生きるかのどちらかしかない、という選択肢しかないのが毒親育ちのつらいところです。

選択肢が増えるとしたら、もう親が変わるしかないですからね・・・。


【私の思う対決の本質】

「対決」という言葉には、まるで親との決闘みたいに、それに打ち勝てば万事うまくいくというような語感があるように思います。

もちろんそれは、本の言いたい「対決」ではないのですが、時々、言葉の解釈を誤って、その人なりに「対決」したにも関わらずモヤモヤしてる人を見つけます。

私が「対決」の解釈をするなら、上に書いたように、それは親との対決ではなく、自分との対決を意味するのだと思います。

確かに、親のせいで自己犠牲的で、マイナス思考、人間関係を築くことが難しいというバイアスのかかった自分でずっといましたが、それは過去の話。

でも現在に至るまで親の呪縛を勝手に引きずって、勝手に行動に制限をかけてるのは自分自身なのです。

自分らしく生きるってことは、自分の未来を自分で作るってこと。

そのためには、今までみたいに誰かの顔色をうかがったり、失敗や批判を恐れたりするのをやめないといけません。

正直、親のせいだって言うのはめちゃくちゃ楽なんですよ。

失敗も批判も、都合の悪いことは全部親のせいだって言っておけばいいんだから。

親に責任をなすりつけるような形で、対決をした気になっても、根本解決にはなりません。

それは結局、親の力を借りてるだけだし、親子の立場が逆転するだけで、今度は自分が毒を発することになってしまう。

そうじゃなくて、「自分はこんなきっかけで今までは苦しんできたけど、これからは自己責任として自分の人生を生きていきたいから、もう干渉しないでね」って、決意表明をできるようになることが「対決」の本質なんじゃないかと今では思います。

ただ、そう考えるのはすごく勇気がいるし、エネルギーも必要。

心が痛んでる時はとてもじゃないけど、そんな力はわいてこない。

ぐずぐずと落ち込んでばかりいる自分に酔う時間があってもいいし、傷ついてるなら、一時的に親のせいにしても自分を癒すことに徹したほうがいい段階もあると思う。

私自身、本当に古傷のかさぶたをはぎにはいだり、傷をえぐり出したりするような思考をわざとすることがあって(歌詞を書く時はよくやる)、そうやっていろんな思考を重ねてきたから。

自分と向き合うことは本当にしんどいし、すごく時間のかかることです。

だから、焦らないで自分の心と向き合っていくことが大切だと思います。

今はネットで検索すれば簡単に答えが導き出せるように思えるけど、私もここに至るまでに2年の歳月を必要としました。

長年かけて毒親育ち思考になってきたんだから、それを克服するためには年単位で時間が必要なんだと思います。

あと、私の思う「対決」の本質がもう1つ。

それは、自分が思ったことを行動に移せるようになるということ。

毒親育ちにとって、自分が思ったことを純度を保って具現化することはとても難しいと思います。

何かしようと思ったら、必ず

「誰かに相談してからにしよう」

「批判されたらどうしよう」

など、他人を気にしてしまい、妥協に妥協を重ねて、結局思い通りにいかない結果に終わることがあるからです。

なんなら挑戦すらできない。

でも、よくよく考えてみれば、人生って大なり小なり、そういう決断の積み重ねでできているんですよね。

それがうまくできないから、毒親育ちは生きづらいんだと思います。

だから、対決なんて大きいことを成し遂げられたら、その他の大半のことは自分で判断できる自信がつくと思うんですよ。

そういう決断する時って決断できるだけの根拠を自分なりに用意すると思うんですけど、「自分がこうしたいって思ったから」という理由でも全然オッケーなはずなんです。

それが毒親育ちには難しいんですけど、きっと大丈夫です。

失敗しても、何か学んでやろうとか。

批判されたら、メンタルを鍛えるチャンスだと思って冷静にスルーしようとか。

自分が間違ってたらちゃんと謝ろうとか。

小さい頃、自分でそういうことを学ぶ前に親がいちいち干渉してきて、そういう経験をするための機会の多くを親に奪われていたから、決断の経験値が足りてないだけだから。

人のせいにしたり、なきものにしたりしないで、ちゃんと結果を受け止めて自分のものにできるようになった時、自信って生まれてくると思います。

だから、対決する勇気が今は持てないという場合は、たとえば普段買い物をする時にも何気なくするのではなく、なぜそれが必要なのか根拠を考えてみたり、失敗した時には今後そうしないための学びだったと考えたりして、小さな決断をたくさん練習してみるといいと思います。

経験しないことは、自分の身にはつきません。

机上の空論ではなく、実際に自分で行動をして、成功も失敗もたくさん経験することが大切なのだと思います。

冒頭に書いたように、理論武装しただけの自分が対決をしていたら、きっと私は親の尊厳を破壊していたと思いますし、そうなっていたらまた私は強い罪悪感に苦しむことになっていたでしょう。

結論、いい夫と出会えてよかったなぁと、なぜだかノロケで終わってしまいそうですが・・・、よき理解者が近くにいることはすごく心強いです。

だから、このブログを読んでいる人で、よき理解者が近くにいない人、私でよければ答えられる範囲でお悩みにこのブログでお答えできたらいいなと思うので、お問い合わせにあるメールアドレスにお悩みをお寄せください

(お問い合わせフォーム作るとスパムがくるのでやめたんですよ・・・ご不便をおかけします。)

もうここまでくると、親の問題ではなくて、自分の中の問題ってことです。

自分の中のことなら、自分でなんとかできるはず。

そう思って、これからも思考を積み重ねていきたいと思います。